100周年記念コンテンツ
100周年記念式典

精華小学校は、2022年に100周年を迎えました。5月17日の創立記念日に先立ち、その前日である16日に全校児童が100周年記念ホールに集まり、記念式典を行いました。そして11月26日、多方面の来賓をお招きし、100周年記念式典が挙行されました。


100周年記念動画
100周年記念ロゴ

精華小学校100周年に向けて、ロゴのデザインを児童から募集しました。
応募作品261点の中から5人の作品が選ばれました。
記念関連グッズ

100周年記念に際して、記念グッズを作りました。普段使いできるコップ・ボールペン・ハンカチ・ファイル・マスキングテープや、教職員が使用するネームタグのデザインも新しくなりました。児童から募集したイラストをベースにデザインされたロゴはステッカーにもなりました。
コンセプトブック

次の100年に向けて、「原点回帰」をテーマに、見直され、再評価される精華小学校の「伝統」に重きをおいた二色刷りのコンセプトブックを作成しました。
4つの危機
第一の危機 関東大震災と精華
創立の翌年に関東大震災が横浜を襲いました。この日児童・生徒は夏休み中でした。横浜は火の海に包まれましたが、幸いにも校舎は倒壊しませんでした。強固な岩盤の上に学園を設立した、創立者の先見の明のおかげでもありました。
創立まもない精華は、児童が戻ってくるか危惧されましたが、創立者の断乎とした学校継続の決意を知り、続々と児童は精華に帰ってきました。震災によって多くの市立小学校がやけてしまいましたが、精華にとっては、大地震は地震に強い地盤の上に建っていることを証明し、世間の注目を集めて逆転の発展をもたらすものになりました。

第二の危機 国民学校令に伴う校名の変更
国民学校令によって、私立小学校の存在は風前の灯火となりました。文部省によって、私立小学校は『国民学校』として認めてもらえませんでした。つまり、学校として認知されないということです。精華小学校は「精華初等学校」としては認めてもらえなかったため、「精華学校」と校名を変更せざるを得ませんでした。
この時、まだ数こそ少なかった全国の私学経営者が結束して、事態の打開を図るため、現在の日本私立小学校連合会が結成されました。
終戦後の1947年3月 学校教育法の発布と共に国民学校令が廃止になるとともに、「精華小学校」ともとの校名に戻ることができました。

第三の危機 学童疎開と横浜大空襲
学童疎開によって、3年生以上の児童と岸田与一先生を団長とした数名の教員が、足柄下郡豊川村へ集団で疎開しました。疎開先では生活を共にしながら学業にも励み、ともに苦しみを分かち、慰めあい励ましあっていたようです。父母は学童疎開後援会を組織して、最初の1年間は毎週1回来訪し、慰問激励に当られたようです。
一方で縁故疎開した児童もおり、その場合は疎開先の学校に入学するために、精華を辞めざるを得ない児童もいました。
雨のように降り注ぐ焼夷弾によって、精華小学校はすべての校舎が燃えてしまいました。この時創立者は「校舎は焼けても、神奈川の教育は焼けない。明日から復興に入る」と叫んだそうです。校舎が完成するまでは、現在の港北区にある慈雲寺を仮校舎として学業に励みました。

第四の危機 新型コロナウイルス
2020年2月に休校措置をとりました。
新年度に入り、入学式も延期。学校から、子どもたちの声が消えてしまいました。オンライン授業ですぐに対応するのか、に対してその時に出した答えはNO。
新しい学年になって、コロナ禍でなかったとしても、4月は新しい環境で学校生活になれる時期です。学習はそれから。だからこそ慎重に判断を重ねました。無理なく家庭で取り組める課題、全学年保護者とのオンラインでの面談を経て6月に学校生活を再開したのです。
宿泊行事も実施することができませんでした。「行きたかったけど仕方ないで終わらせずにできることをやろう!」その時にうまれたのが、夏季教室のかわりに行ったSSDs(Summer Special Days)です。先生方の知恵を振り絞って様々な分野の方の協力を経て実施しました。

Summer Special Days(SSDs)
取り組み例
コロナ禍で実施できなかった宿泊が伴う夏季教室を「Summer Special Days(SSDs)」と形を変えて実施しました。夏季教室の期間に各学年、特別ゲストをお招きしたり、子どもたちで企画を考えたりして、特別講座を実施しました。